俺と君の間にある壁の上で一緒にリートを奏でよう1
見切り発車二次創作第二弾
原作:ガールズ&パンツァー
ジャンル:オリ主&原作キャラによる恋愛モノ
注意点:独自設定・独自解釈
ガルパン側の設定としてはTVシリーズと劇場版(対大学選抜)までの一連の流れをたたき台にし、その他のスピンオフ、外伝作品の設定は含めない物とする。
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第一話
「それではお疲れ様です。また明日もよろしくお願いしますね」
「別にいいのよ。こっちも少ない時間で働かせて貰えて感謝してるんだからさ」
古ぼけた一軒のパン屋。
その戸口では中年の女性を見送る青年の姿。
女性は近所の家の奥方で、このパン屋「武蔵」にパートに来ていた。
青年は女性が角を曲がって見えなくなるまでその背中を眺めていたが、彼女の姿が消えると背伸びを一つし、そして店の中に消えた。
「うーん、今日も店の中がカレーの匂いしかしないなぁ……」
店内に入った青年はそう呟くと苦笑いを漏らした。
実際凄まじいまでのエスニックな香りが店を占領している。
というのもここはパン屋ではあるが、一番の売り上げを出す人気メニューは「武蔵のカレーパン」である。
見れば店内の一番目立つ位置には丸々としたきつね色のカレーパンが無数に積まれている。
この青年は吉岡啓二と言い、今年25歳になる。
それほど大きくも無いが、かと言って小さくも無い身長で、黒髪を今時珍しいアイビーカットに整えている。
髪色は黒だが、柔和な彼の面持ちも相まって、人好きのする雰囲気である。
彼は元々大学を中退して渡仏した経験を持つ。
それは在学中にランチを摂ろうとたまたま入ったカフェで食べたパンが非常に美味しかったからだ。
吉岡の家は家族構成が共働きの両親と妹と言う、特に期すべきことも無い普通の家庭に産まれた。
その為毎日の食卓には和食も洋食も並ぶ。
だから特別パン食を愛していたという訳でも無い。
吉岡にとってパンとは、街のパン屋やスーパーマーケットで手に入る範囲の感覚でしか無かった。
角食なら白くて柔らかく淡い塩味で、フランスパンなら同じく柔らかいが噛み切るのが大変。
街のパン屋では定番の惣菜パンやサンドイッチ等。
彼以外の平均的日本人にとってもおなじみのパンだ。
しかしそのカフェは少し違った。
そこは夫婦が二人で営んでいたのだが、主人がフランス人なのだ。
ナポレオンの故郷であるコルシカ島の出身で、成人後はパリのパン屋で修行をした。
その後留学でパリにいた日本人女性と知り合い、そして結婚。
子供が出来たのをきっかけに、妻の故郷である日本に移り住んだという経歴だ。
彼が焼くパンは本場フランスのオーブンを使った本格的なフランスパンだった。
特にバケットが吉岡に衝撃を与えた。
バゲットは日本人にとっての米と同じような物で、現地では毎朝何本もフランス人は買うレベルだと吉岡は聞いた。
このカフェのバケットは、指で簡単に千切れ、香ばしく焦げ目がある。
細身で中を割れば空気が多く含まれているのか穴がいくつもある。
吉岡はぞっこん惚れこみ、その後、ランチ時間は必ずそのカフェに通った。
好きになると一途になりすぎる性格の吉岡は、店主ともっと話しがしたいとフランス語を習得したほどだ。
そしてフランスのいろんな話を聞いているうちに、気が付けば留学の手続きを済ませ、家族に相談もしないままフランスに向かったのだ。
フランスでパン屋の事をブーランジェリーと言い、パン職人をブーランジェと言う。
しかしただのパン屋はブーランジェ足りえない。
きちんと小麦を厳選し、全て手作業でパンを焼きそこで売る職人をそう呼ぶのだ。
これは厳しく法律でも決められており、いかにフランスがパンを愛しているかが分かる。
吉岡はフランスに渡った後、パリジャンにも有名な店に無理やり弟子入りをし、結局は押しかけ女房の様な形で三年の修行を済ませた。
店のオーナーも、この強引で頑固で、だがパンへの愛に溢れた風変わりな日本人を結局は気に入り、帰国後の店の開店の為に、店でも使っているオーブンのメーカーで新品を注文してプレゼントするとまで言わしめた。
結局吉岡は恐縮しきって固辞したが、その代り、三年間の修行で使い慣れた道具類を譲って貰った。
帰国しても開業する目途なんかそもそもない。
渡仏のきっかけも衝動みたいな物であるし、三年働いた給金だってパリで借りた安アパルトメントの家賃や食費に消えた。
それに本場フランスの味を知りたいとパン以外にも食べ歩きを行ったため、貯金なんかほとんどない。
これでは開業なんて夢のまた夢である。
そして帰国した吉岡だが、家族全員から叱られるという当然の結果を味わった。
妹などは兄貴なんか死ねと喚き、号泣したほどだ。
とは言え両親は息子の性格を知り尽しているのか、怒ると言うよりは呆れると言うニュアンスの方が強かったが。
まあ無事であるからいいのだという結論に落ち着いた様だ。
しかし彼の母親はそんな息子に一つだけ注文を付けた。
それは母方の田舎である熊本に行き、本家で線香をあげて来なさいと言う物だ。
というのも吉岡がフランスにいる間に彼の祖父が亡くなったのだ。
吉岡は一応自分の住所や近況を母親にメールで知らせていたが、葬儀の為に帰国させるのも忍びないと伝えていなかった。
けれども吉岡は小学生の低学年の頃から中学二年生くらいまでの間、長期休暇があると足しげく熊本に行くほどのお爺ちゃん子だった。
その祖父が何やら吉岡に遺言を残したとの事で、本家から来てほしいという事情もあった。
だが吉岡は受験戦争に臨むにあたって熊本への足は遠のき今に至る。
祖父がパン屋を営んでいる事すらも頭から消えていた。
奇しくも吉岡はパン職人の道を歩んでいるのはどういう偶然なのだろう。
吉岡は二つ返事で了承し、そして母方の本家のある熊本市へと向かった。
本家は熊本港からほど近い住宅街にあり、祖父のパン屋はさらに港寄りの一角だ。
パン屋は現在閉められており、その横をタクシーで通りながら彼は本家についた。
懐かしい香りのする田舎の家に吉岡は鼻の奥がツンとしたが、そんな彼を祖母や親戚一同は暖かく迎えてくれた。
仏壇に線香をあげ、吉岡は長い間の無沙汰を詫びる。
そして親戚連中に焼酎を飲まされながら、歓待の宴で4日酔いになったのだ。
そのまま和室に仰向けに倒れ、それでもやはり熊本はいいなぁと思う吉岡であった。
その後、財産の整理を任されていた弁護士が呼ばれ対面した。
既に吉岡個人に宛てた遺言状は開示されおり、内容は既に親戚一同が納得済みだと言う。
その中身とは、祖父が営んでいたパン屋をそっくりそのまま吉岡に譲るとの事だ。
勿論条件付きで、ここに住み、パン屋を継ぐのが前提となる。
これは吉岡の母親経由で彼がフランスでパンの修行をしていると聞きつけた祖父が、可愛い孫に託したいという意味で決めた様だ。
この遺言状を作る際も、病室のベッドの周りには主要な親戚が集まっており、円満な雰囲気だったという。
皆この祖父の事が大好きで、彼の思い入れのあるこの店を残したいと願っているのだ。
内容を聞き、しばし呆然とする吉岡。
そして泣きに泣いた。死に目にあえなかった事がとても悲しかったのだ。
それと同時に嬉しかった。
遺品にあった祖父の手記を見せて貰うと、パン屋を継ぐ者がいない事を随分となげいていたのが分かる。
だが吉岡がパン修行をしたと聞いた後は、啓二に継いでほしいと何度も書き記されていた。
吉岡は結局その場で両親に電話をいれ、自分はこのまま熊本に住んでパン屋を継ぐことを宣言した。
パン屋は戦後すぐに建てられた物であちこちガタは来ているが、二階には3LDK程度の住居スペースもあり、移り住むには丁度良かった。
彼は急いで自宅のある横須賀に戻ると、様々な手続きを済ませて熊本に舞い戻った。
そしてパン屋を含む土地家屋を正式に相続し、運転資金としてよけてあったという少なくない現金をも相続し、数か月の期間を経てパン屋「武蔵」はリニューアルオープンを果たした。
開店初日、地元の人間が集まってきて吉岡は驚いた。
ここまでこの店が愛されていたのかと実感したからだ。
吉岡は開店するにあたって、相続した品の中にあった祖父のレシピノートを確認した。
それによると、このパン屋での売り上げの実に七割がカレーパンであることを知る。
カレーパンは総菜パンの中では珍しくはないが、だからといって比率が異常過ぎる。
だがレシピを読んでいるとその理由に納得してしまう吉岡がいた。
というのもこのカレーパンにはちょとした歴史があるのだ。
彼の祖父は元々帝国海軍の戦闘機乗りだったという。
後の撃墜王と呼ばれる男の元で空を飛んでいたが、訓練の最中にエンジンが止まり、不時着をした際に足に大けがを負い、回復はした物の歩行が困難となり、空は飛べなくなった。
祖父はその隊長に惚れこみ、死ぬなら彼と一緒に死にたいと公言するほどだったが、この事で丘での勤務に配置換えを言い渡された。
しかし彼は当時の規律に厳しい軍の中で、上官に直訴をした。
俺を丘に上げないでくれ、その代り、船の中でどんな事でもするから、頼むから前線から外さないでくれと。
とにかく当時の吉岡の祖父は、飛行機乗りの傍に居たかったようだ。
いくら折檻しようが齧りつく様に食い下がる祖父に、結局は上官が折れた。
そして彼の祖父は南方へ向かう巡洋艦の烹炊所(ほうすいじょ)の勤務となった。
要は厨房で、船乗りたちの食事を作る部署だ。
それでも前線に居られると喜んだ祖父は、今まで包丁なんか握った事も無いというのに調理の仕事に勤しんだのだ。
さもありなん。当時の一般家庭では、男子厨房に立つべからずが常識である。
しかし元々の才能があったのか、或いは執念めいた気合いの結果か、祖父はめきめきと頭角を現した。
烹炊所の上官が目をかける程に調理を効率的にこなし、味覚も信頼できる。
気が付けば彼は、他の船の烹炊所を任される様になり、最終的には戦艦武蔵の烹炊所に栄転をした。
彼は武蔵が沈没するまで勤め上げ、駆逐艦清霜に救助され本土に送られるまでの間の事を宝物の様に大切に思った。
その後地元である熊本で療養をしている時に終戦を迎えた。
祖父は喪失感に包まれていたが、どうにか戦友たちの想いを後世に残したい。
そうする事が生き残った自分の使命だと一念発起し、烹炊所での経験を生かしてパン屋を開業したという運びだ。
何故パン屋かといえば、時代の移り変わりを身をもって感じ、ならばモダンな物がいいだろうと思ったと言う。
そして名物になったカレーパンは、彼が様々な軍艦を渡り歩いて覚えたカレーがベースである。
いまでこそ有名である海軍カレーという物があるが、閉鎖空間での曜日感覚が狂わない様に金曜日にカレーを出すなどと言った理由は戦後の事であり、当時は船乗りに付き物の、偏った食事から脚気になったりすることを抑える為だった様だ。
米だけを食べるのではなく、野菜や肉が、スパイスが入っているカレーは、それひとつである種完全食とも言え、大量の調理が必須な烹炊所において手間がかからないという利点もある。
それに調理の過程で味付けを変えれば肉じゃがなどにも転用できる点も大きい。
当時は食事が一番の娯楽であり、各船の烹炊所では競う様に独自のカレーが編み出されたという。
当然武蔵にも武蔵のカレーがあり、祖父はそれをパン屋の目玉としたのだ。
武蔵が沈没した際にはかなりの人数が死んだ。
あれだけ巨大な船が沈没したのだ。当然海流が凄まじい事になり、周囲には渦が現れそれに巻き込まれる者多数。
吉岡の祖父は後方から脱出したので巻き込まれなかったが、この事はいつまでも彼の心に影を落とし続けた。
故にカレーを頬張って嬉しそうに笑う海兵たちを忘れない様にと言う強い思いがあるのだろう。
吉岡はこのカレーのレシピを見て天を仰いだ。
というのもこのカレーパンの中のルウは、パン用に改良した物では無く、武蔵で祖父が作っていたカレーそのままを入れているのだ。
中に入っている肉もほぼ角煮と言っても通じる程にゴロリとしたもので、素材は地元の黒豚を使っている。
このカレーパンは二七〇円と言う価格で提供されているが、一個売れても利益が五〇円程度しか出ない程にコストが高い。
本来これはあり得ないのだが、このカレー自体、普通にカレーライスの専門店で出せる程のクオリティなのだから当然とも言えるだろう。
吉岡はフランスで学んだバケットを主軸にと考えていたが、この祖父の手記による思い入れの強さを目の当たりにして、これを途切れさせるのは色々不味いと思った。
祖父どころか空の上の英霊達が寄ってきて恨み事を言われそうだと不謹慎にもそう思ったのだ。
なのでカレーパンを主軸とし、その他をバケットを中心としたフランスのパンで埋める。
だがメニュー数を絞り、限りなく少なくすることに決めた。
いくら祖父が資金を残してくれたとは言え、赤字を垂れ流せば半年もあれば潰れる。
だが従業員を多く雇う余裕も無い。
そうなれば仕込みと売り子を自分でやり、最低限の部分をパートさんで賄うという方針を取らざるを得ない。
とにかく彼は基本的な方針をそう決めたのだ。
武蔵カレーは実際大変だ。
仕込みから煮込んで完成まで半日以上費やす。
だがそのままは使えず、専用の大型冷蔵庫に寸胴ごといれて一晩寝かせて完成するのだ。
なので実際パン種で包めるまでに二日を要する。
何とも効率の悪い食材なのだ。
吉岡は開業にあたり、カレーパンの他はバケットとバタール、それを背割れにして惣菜を挟んだサンドイッチのみで始めることにした。
祖父の手記にはパンの殆どが早朝の開店から昼の時間帯で売り切れるとある。
つまり地元の人間の朝食や昼の弁当代わりに買っていき、昼前には近所の主婦が買う。
なのでそれに習い、午後までに売り切れるだけをその日に焼き上げ、その後は店を閉めて仕込みに使うというサイクルにした。
こうして彼の祖父の店であるパン屋「武蔵」は復活を遂げたのだ。
それを待ち望んでいた地元のファンに祝福されて。
実際開店してみると、吉岡のバケットも受け入れられた。
軽く、香ばしい本場のフランスパンは、実はどんな食事にも親和性がある。
吉岡もフランスでは時折故郷の味が恋しくなった。
フランスは親日家が多く、日本食も認知されていたので、探せば醤油などの調味料は手に入った。
彼は自分の部屋で煮物なんかを作り、売れ残ったバケットを千切っては煮汁に浸して食べ、白ワインで流し込んだ。
先入観から合わなそうと思いがちだが、実際食べてみると驚くほどに美味い。
そもそもカレーの付け合わせにナンがあるが、ナンもパンの様な物だ。
つまりオリエンタルな味付けに合うに決まっているのである。
それを実体験として知っている吉岡は、店に来る常連の奥さま連中に実演して見せたのだ。
和食、ジンギスカン、やきそば、なんでもござれ。
日々食卓に載るだろう当たり前のメニューを用意し、来た奥様達に浸して食べてみて欲しいとやった。
それが受け入れられ、カレーパン程じゃないにしても、彼の想定以上にバゲットは売れる様になった。
なので吉岡は他のパンを作るのをやめ、最終的にはカレーパンとバケットのみの風変わりなパン屋として定着した。
パートについては早朝の二時間ほどだけ雇う事にした。
開店は午前七時だが、前日に仕込んだ成型済みのパンを焼き始めるのは午前四時過ぎからだ。
そこからひっきりなしに焼き上げ、あら熱を取るための台に山積みになる。
それでも吉岡はオーブンにつきっきりになるので、品出しが手薄になる。
そこをパートさんにやって貰うのだ。
そして全てがショーケースやテーブルにディスプレイされれば仕事の七割は終了である。
パートさんが帰った後、吉岡は売り子をしながら合間に残りのカレーパンを揚げるだけでいい。
そうして吉岡のパン職人としての日々が始まったのである。
☆
爺さんのパン屋を継いでから少し経ったが、何とか軌道にのってほっとした。
最初はどうなるかと思ったものだが、やってみれば慣れるのも人間ってやつか。
熊本は暑いが、横須賀ほど蒸し暑くないのでそこまで辛くはないし。
何というか人当りの良い常連さんも多く、どれだけ爺さんのパンが愛されていたかを思い知った。
フランスでの修業は辛かったけれど楽しかった。
親方も厳しいし、同じ弟子仲間はライバル意識が高い。
フランス人のパンへの意識は非常に高く、俺達の米かそれ以上の思い入れがあると思う。
なのでバケットのコンクールが毎年行われ、そこでの順位は相当に名誉なのだ。
それこそ下手な芸能人よりも尊敬を集める程に。
だからこそ弟子たちは我こそが次代の名ブーランジェになるのだと切磋琢磨をする。
実際コンクールで受賞すると、それぞれの店は何位になりましたと宣伝する。
これがモロに売り上げに響き、地元の人間だけじゃ無く、ガイドブックを見た外国人観光客も押し寄せるから物凄い事になるのだ。
だが日本で言う同じ釜の飯を喰うじゃないが、一緒に修行をしていると家族になったかのような雰囲気になるのだ。
それがとても心地よく、パン修行の為に渡仏したが、そのまま定住したいという誘惑にかられたものだ。
結局俺は帰国を決めたが、あれだけ朴訥な親方が目を真っ赤にして抱擁してきたのには驚いた。
お前は俺のフィスだと言い、同僚たちも感極まっていた。ちなみにフィスは息子って意味。
俺もいい大人なのに声をあげて泣いてしまったし。
ただ無心に日々を過ごしただけだったが、きちんと評価してくれたことがとても嬉しかった。
帰国して驚いたのは爺さんが死んでいた事だ。
昔はよく熊本に行った物だが、思春期を過ぎてから何かと忙しくなり疎遠になっていた。
けど俺は爺ちゃん子だったし、やはり思う所はあった。
なので母さんに言われるままに線香をあげに来てみれば、気が付けばパン屋を継いでいた。
修行を終えても然して目的があった訳じゃない。
ただその実績でどこか有名店にでも行ってみるかとか思っていただけだ。
何というか日本の有名店の味がどれほどの物か試してみたいというか。
フランスにいればいるほど、一般的な日本のパンが美味しくないと感じる様になっていた。
味云々というよりは食感というか、日本のパンはただ柔らかいだけだと思ったのだ。
小麦本来の味を楽しむとか、噛む事を楽しむとか、そう言う部分は排除され、ただ柔らかい事が良いとされている様に見えるのだ。
確かに用途に応じて柔らかさは大切だとは思う。
例えば入れ歯になって顎の力が弱ったご老人に硬いパンは拷問だろう。
後はイギリス風なサンドイッチなどもそうだが、その手のケースは柔らかいで正解なんだろう。
ただパンを味わうと言う事なら違うと思うのだ。
例えるなら米にはコシヒカリやミルキーウェイ等といった美味い品種がいくつもある。
だが普段食べる為の安価な米も当然ある。むしろ生産量はこっちの方が多いだろう。
その高級米から量販米を何種類も用意して、きちんと炊いた上で塩むすびを作って食べ比べてみるとする。
そうすれば銘柄は分からなくとも、これがとても美味いと言う風に感じる筈だ。
米の味を楽しむと言うのはその差の部分を味わう事だろう。
けれど単純に柔らかい事だけを美徳としたら、せっかく美味い筈の米を全ておかゆにして味わう様な物だ。
おかゆは悪くないが、それを毎日喰うなんて拷問以外の何物でも無いだろう。
スーパーで売っているパンは概ねそんな感じであるし、俺がどうであれ、多くの日本人の好みはそれで固まっているのだ。
だからこそ一つのパンを五〇〇円前後で売る様な有名店の味はいかがなものかと偵察に行こうと思った。
我ながら性格が悪いと思うが、その上で日本の流れを学び、安全に開業しようなんてね。
結局は爺さんの店を継いだのだから今更ではあるにしても。
問題は爺さんの店で常連さんが求めているパンがカレーパンだって事だ。
カレーパン。パン種の中にカレーペーストを入れた物にパン粉をまぶしてカラリと揚げたアレの事だ。
まあピロシキとかカレーパンってのは何かこう心が躍る感じがするのは分かる。
やきそばやコロッケが挟まってたりとかね。
でもそれがメインというか、売り上げのほぼ七割がカレーパンとか驚愕だろう。
後は申し訳程度にコッペパンとか角食パンを焼いている程度で、カレーパンのついでにそっちを
買うかみたいな不思議な店なのだ。
爺さんから俺への財産分与の中に、戦時中からつけていたらしい日記と、料理レシピがあった。
それは爺さんの生前時、誰にも見せた事が無いと言うから驚きだ。
まあでも中を見て納得はしたが。
レシピノートはもはやパン屋の親父レベルじゃない。
和食から洋食に至るまで、無数のレシピがそこにあった。
何というか料理人のレシピノートだ。
この謎は直ぐに解けた。
日記を読んだからな。
そこに記されていたのはエグすぎて言葉を失う様な内容だった。
勿論悪い意味じゃない。
俺にとっては孫にダダ甘な好々爺像だったが、若かりし時の爺さんはかなりの武闘派だったのだ。
爺さんは帝国海軍の戦闘機乗りとして戦友たちとしのぎを削っていたが、訓練中の怪我が祟って戦闘機を降りた。
そう言えばいつも足を引きずって歩いていたもんな。
で、爺さんは丘に配置換えを言い渡されたが、上官に酷い折檻をされながらも船から降りないと言い張り、結局は船に残った。
その代わり、船の厨房に転属になったのだ。
そこで学んだ料理の全てがレシピノートに記されていた。
爺さんは最後、この店の名前にもなっている戦艦武蔵にいたらしい。
武蔵の名前はミリタリーに疎い俺でも知っている。
実は小さい頃、大和のプラモデルを買いに行ったら売り切れており、仕方なく武蔵を購入して作ってみたらすごくカッコよくて驚いた事があるのだ。
で爺さんのカレーは武蔵の乗組員たちに大人気だったようだ。
結局は武蔵は沈没し、命からがら脱出したが、消耗が酷く本土の病院に後送されたそうな。
ここまでの間に爺さんが覚えている限りの戦友の名前や状況が綿密に書いてある。
その戦友は皆、爺さんが死ぬところを見た人間だ。
つまり爺さんは遺骨も残らないかもしれない死を悲しみ、せめて死んだ時の様子を遺族に伝えようとこれを書いたようだな。
戦時中はイデオロギーなんて無かったとも書いてある。
戦後七〇年以上も経った現在、戦争を知らない人間同士で右だ左だと論争をしているが、実際戦争当時には、特に前線の兵士にはそんな事関係なかった。
ただ日々を生き抜き、国を護りつつ、やがて家族が待っている故郷に帰りたい。
その一心だけで戦っていた。
だからこそ爺さんは、帰る事が出来ない戦友たちの記録を残したかったんだろう。
因みにその名簿めいた人名には朱墨でチェックがついている人と、そうでない人がいる。
婆さんに聞いたらチェック済みの人は爺さんが連絡が取れた相手だと言う。
死に様を手紙に記し、遺族の方に送った様だ。
こんなのを見たらカレーパンをやめて自分の好きなパンだけ焼くと言う選択は無理だった。
爺さんはパン屋と言うよりも、このカレーパンを残したかったんだ。
それがひしひしと伝わってくる。
だからこれまでの様に七割がカレーパンで、残りはバケッドを焼き、その合間にフィナンシェやカヌレの様な焼き菓子でも焼くか、そう決めた。
爺さんは店とは別に、壱千萬円ほどの現金も分与してくれている。
店を継ぐなら改装費や運転資金にしろって意味らしい。
けど壱千萬なんか赤字経営を続ければあっという間に消えるはした金だ。
なので店は俺ともう一人パートさんを雇う、それも朝の忙しい時間帯だけって感じで人件費も極力抑える。
それくらいカレーパンに入れるカレーの仕込みが大変なのだ。
爺さんが武蔵で実際に作っていたカレーそのままをパンに入れている。
ここに一切の妥協をしてないのだ。
ならカレーパンを俺も焼くとして、ここを手抜きすれば常連さんに大ヒンシュクを買うだけだ。
パン屋ってのはどれだけ常連を抱えられるかが生命線だからな。
雑誌やタウン誌などを見てやってくる、一見のまま二度と来ない客なんか正直どうでもいい。
結果、営業するのは売れ切れるだろう午後を回った頃までとし、残りは店を閉めて仕込みを行う。
経費を抑えて味のクオリティを落とさない為にはこれしか無かったとも言うが。
それでもやってみれば存外面白いのだ。
船の中で栄養が偏りがちな海兵のために考案されたと言うカレー。
多分日英同盟なんてのが昔あった影響なのだろうか?
所謂スープに近い現在のカレーってイギリスが元祖というし。
実際カレー粉ってイギリス発祥だった気がする。
このカレーに野菜や肉をごろごろと入れれば、少ない時間で全ての栄養をカバー出来る訳だ。
作戦中の軍艦はいつだって緊張に包まれているだろうし、そんな中で、ご飯に味噌汁におかずがあって栄養を補うのにサラダが云々なんて出来る訳が無い。
なので爺さんのカレーレシピもかなり豪快だ。
調合されているスパイスも独特であるし、とろみをつける小麦粉もきちんと乾煎りを念いりにする本格派だ。
中でも独特なのは九州地方では有名な黒豚の三枚肉を惜しげも無く入れる所か。
もうね、きちんとした中華の高級店で出てくる角煮レベルだもの。
後は甘味料をかなり大量に入れる事か。
ただレシピに従って完成したカレーを食べてみると、別に甘ったるくも無い。
むしろきちんと辛みが舌を刺激してくる。
大量の甘味はカレー全体にまろみというか、コクを出す為の役割なんだな。
ごろりと大きく乱切りにしたサツマイモも中々いいアクセントになっている。
面白いのは常連さん達はカレーパンを山ほど買ってくれるが、店に来る時は鍋を持参で来る人がいるって所だ。
どうやら爺さんは常連さんに限り、カレーを単品で売ってたらしい。
手記にもあったが鍋一つで千円だそうだ。
これが高いか安いかは知らん。ただこれも店の伝統って事で俺もやる事にした。
そもそもだ、何個で完売するとか目途がついているのに、仕込む量が妙に多いのはその為だったのだ。
ならいっそ、店がもっと安定して、俺に奥さんでも出来たりしたら、カレーをランチに出すカフェでもやっても良い程だな。
それほどにこのカレーは美味いのだ。作るこっちは大変だけれども。
今朝も月曜日だってのに忙しく、パートのマサエさん(四七歳)を帰す頃には朝に焼いたパンのほとんどが売り切れていた。
後は既に成型してある残りのカレーパンを揚げれば今日の店の業務の殆どは終了だ。
残りは売り切れるまでレジをやってればいい。
店を閉めたらカレーやパンの仕込みだが、今日はちょっとだけ違う。
それはソーセージを仕入れる為の交渉に向かうつもりだからだ。
なのでカレーの仕込みは昨夜の分を倍にしてある。
先方には既に約束を取り付けてあり、店を閉めたら向かうだけだ。
せっかくだからカレーパンを土産に持っていってみようか?
一応うちの主力だしな。
ソーセージを仕入れたい理由は、常連さんの中の学生さんから言われたのだ。
店長のバケットは美味しいんだけれど、これを背割れにしてサンドイッチにしてくれたら嬉しいのにって。
その子達は近所の高校で運動部に入っているのだが、何個か買うカレーパンは朝練の時に食べきってしまうらしい。
なので昼用にサンドイッチがあったらいいのになと言う訳だ。
既にサンドイッチ系のメニューは出しているのだが、それはあまり大きなものではないし、具材も業務用のペーストを使った卵サンドとかだものな。それだと物足りないらしい。
和食だろうが中華だろうが、果ては焼肉だろうがバケットは何にでも合う。
それを開店初期の頃は客の奥様達に実演して宣伝し、常連さんの殆どが必ず一本ないし二本のバケットを買っていってくれる。
けれど考えてみれば若い客にはあまり売れていない。
自分で言うのもなんだが、こんなにも美味しいのに。
最近の女の子はみんな小顔で可愛らしいが、若いなら尚更このバケットを食べて顎も鍛えて欲しい。
そう言う食育の意味も込めて、俺は彼女たちの要望通り、若い人向けのサンドイッチを開発する事にしたのだ。
そうなるとやはり、ハムやベーコン、ソーセージは欲しくなる。
俺はパン屋の二階を自宅にしているが、実は食事だけは本家に行って食べている。
この辺の土地柄なのか、大人数での食事ってのは遠慮する方がおかしいみたいな空気があるのだ。
なので俺も遠慮せずにお世話になっているのだが、その際に俺は聞いてみた。
若い子向けのサンドイッチにソーセージとかハムが欲しいけれど、どこで買えばいいのか? って。
田舎ってのは割と横の繋がりが広く、思いがけずコネクションがあったりするからな。
俺は熊本市民にはなったが、所詮新参だ。
なら地元の人間に聞くのが正解だろう。
そしたら伯母さん、つまり母さんの姉になる人が言った。
わたしの母校で盛んに作っていて、確か外部にも販売していた筈だから聞いてみようか? って。
どうも伯母さんの母校はかなりの大型校で、寄宿制らしい。
その中で生徒の自主性や社会性を成長させるために、学校や寮で使う食材を自分たちで作るって言うのが伝統になっているらしい。
芋などの野菜や、豚や鳥の飼育と言った感じで。
野菜はあるだろうが畜産は凄いな。
肉にするには必ず屠殺をする。
若い人が世話をして愛着が沸いた所で食べる為に殺す。
なるほど、何とも素晴らしい教育方針だと感心してしまった。
良い所だけじゃなく、影の部分もきちんと見ることで得られるバランス感覚は素晴らしいだろう。
そしてその肉でハムやソーセージを作っていると言う。
それも伯母の贔屓目を差し引いても相当に美味いと言う。
何より学生が作っているから価格も安いらしい。
なら一度伺ってみたいと伯母にアポイントを取って貰った。
俺が高校生の時は受験の為の予備校通いに明け暮れていたから、こういう話を聞くと羨ましくなってしまう。
熊本市のいちパン職人としての生活を淡々と送る俺であるが、今日だけは何故かワクワクしていた。
二十五歳にもなってどうなんだと思わなくも無いが、何故かとても良い事が起きる、そんな予感がする。
そんな事を考えつつ、俺は残りのカレーパンを揚げる作業に没頭するのであった。
きつね色のパンを見て、狐ってこんな色してたっけ? なんて思いながら。
つづく